Thursday, June 25, 2015

父親講座

長男の学校でも長女の学校でも父親向けの講座がある。講座の名称は違えどどちらもカトリックの学校なので神父様、司教様からお話を聞く。

今週は長男の学校で講座があった。学校の創立記念にあわせて、今回はゲストの方のがお話しになった。ゲストは震災のあった岩手県でお医者様をなさっている山浦玄嗣氏。先生はカトリック信者でもある。
また、聖書をケセン語(岩手県のほうの方言)に訳して出版された方。

今回、山浦先生には本に書かれた内容について、(基本的には新約聖書、4つの福音書だが)その物語の時代的、文化的背景や、先生ご自身が執筆するにあたって考えられたことなどを交えてお話しいただいた。

意地悪く見てしまえば本の宣伝のための講演とも言えるのだが、いっぽうで、聖書の言葉を、聖書に書かれている物語を皆んなに知ってもらいたい、世間に広まって欲しい、という強い気持ちが感じられた。

話の内容を抜粋して書いておこうと思う。
日本語、特に江戸時代の言葉---私たちの馴染みのある言葉で表現することで、その場面、人物の立場などを思い浮かべやすくなる。
聖書時代のイスラエルも同じような階級社会。学者のファリサイ派は武士のような上位階級、イエスは貧しい大工の家の生まれ。その関係を話し言葉のセリフを読んだだけで理解できる。

慣用表現
イチジクの木の下
いちじくの樹の根方にいるというのは、聖書をしっかりと学ぶという意味の、一世紀当時のヘブライ語における慣用表現。
そのような場面がヨハネ1・48 に出てくる。
ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。

訳語について
心の貧しいものは幸いである
心は原典ではプネウマ。風/息吹/呼吸/生命/心/霊魂 というような意味。鼻息という言いかたがよく当てはまる。鼻息が荒い様子の反対。よわよわしい人のこと。
ケセン語訳では「頼りなく、望みなく、心細い人は幸せだ」となる

 「愛」
聖書には愛するという表現が沢山出てくる。日本語で「愛」は自己本位的な感情で上から下へ向かう。しかし原典に当たればこの言葉は「大切にする」という表現のほうが相応しい。

という具合。

また、当時の独特の慣用句、文化を背景にした言葉もあり、解説を伴って読めばさらに理解が深まる。そのためにその解説本も著されたそうだ。
この解説本は、関西の某私立中学高校では、宗教(倫理)の副読本になっているそうだ。

あっという間の1時間半。時間を忘れさせるお話だった。


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